赤カラコンというのはコスプレで使う人が圧倒的多数だと思います。
普段使いで赤カラコンを選ぶ人はほとんどいないはずです。
そのためか、数年前までは赤カラコンは販売されている種類が少なかったです。
特に「ワンデーで度ありの赤カラコン」は自分が調べた限り全く販売されていませんでした。
しかし最近になって「ワンデーで度ありの赤カラコン」というのもいくつか販売されてきています。
どんな種類があるのかというのは下記の参考サイトで確認できます。
http://xn--l8jzhtd6a3u6bv039bcfyd.biz/

なぜ最近になって急に「ワンデーで度ありの赤カラコン」が増えたのか考えてみたのですが、

  • 日本でもハロウィンイベントが定着した
  • カラコン自体が一般的になったため種類が増えた
  • リアル店舗ではあまり売れなくてもネット通販でよく売れる

などが理由でしょうか。

一つ目については、ハロウィンのコスプレで赤カラコンを使いたい人が意外と多くて種類が増えたという推測です。
二つ目については、昔はコスプレイヤーやギャル系の人ぐらいしか使わなかったカラコンも今やいろいろな人が使うようになっていて、それに伴いカラコンの種類が増えて赤系も増えたという推測です。
そして三つめですが、リアル店舗だと販売スペースの都合で売れ筋商品中心の品ぞろえになりますが、通販ならたまにしか売れない商品も商品リストに入れておけて全国から注文を受け付けられるので、赤カラコンも通販ショップからの需要が高まったという推測です。
全部外れかもしれませんが全部当たりの可能性もありますね(笑)

とにかく!今は赤カラコンも色々と販売されていて、通販を利用すれば簡単に手に入ります。
赤カラコンに興味がある人はこのページで紹介した参考サイトをチェックしてみてください。

現在、カラコンはワンデー使い捨てタイプと1か月使い捨てタイプの2種類が主流です。
以前は1年使用タイプもありましたが、数年前にカラコンが雑貨扱いから医療機器扱いに変わったことによって1年使用タイプというのは無くなりました。
ネット通販だと1年使用タイプのカラコンも売られていますが、ネットで販売されている1年使用タイプのカラコンは日本の厚生労働省から高度管理医療機器としての認可を受けていないカラコンです。
この未認可のカラコンというのは安全面での不安があるので購入はやめておいた方がいいです。

というわけでワンデータイプか1か月タイプかということになりますが、おすすめはワンデータイプです。
何といってもワンデータイプだとレンズケアが不要というのが大きな利点です。
使い終わったらレンズを外して捨てるだけです。

他にも、使いたいときだけ使えて無駄が無いのもワンデーの利点です。
1か月タイプの場合、せっかく買っても1か月のうちに3回くらいしか使わなかった、という場合にすごくもったいないです。
しかしワンデータイプであればそういった無駄がありません。

逆に1か月タイプの方が優れている点は「カラコンを毎日のように使う場合にはワンデータイプより安く済む」ということぐらいだと思います。
あとは発色や着色直径などが自分好みのカラコンが1ヶ月タイプしか発売されていない、という場合にも当然1か月タイプを使うしかありません。

次にカラコンをどこで買うかについてですが、通販で買うというのもおすすめです。
リアル店舗に比べて取り扱い商品が多いショップが多く、リアルショップではあまり見かけない商品でも通販なら簡単に買えます。
しかし既に書いたように、通販の場合にはショップにより厚生労働省で未認可のカラコンも販売されていますので注意してください。
認可済みのカラコンを販売している信頼できるカラコン通販サイトは、下記の参考サイトで確認できます。
http://xn--l8jzhtd6a2g0iqb5ab5g4245d.biz/

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 農民時代から文字通り理想的な晴耕雨読か、それとも晴読雨書なのか、姿こそ農民であっても、一たん彼氏の部屋には入れば、萬巻の書に足の踏場もなかったとは次兵衛がよく話していた。あの長篇快作『ドグラ・マグラ』も此の頃から書き始められたのではあるまいか。
 久作さんは又非常な情熱家であった。かつて久作さんや次兵衛達によって短歌会が持たれていた頃、たまたま散策には少し寒いが晩秋の月のいい日に香椎の山で会が持たれて、一同は久作さんの山家で気勢を上げたそうである。飲む程に喋舌る程に、熱を上げ、降りしきる虫の声も眠る頃に及ンでやっと三人かたまり五人集って、三里の道を博多へと帰り始めたとお思い下さい。勿論その時分乗りものが有ろう筈もない。

 改めて云ふまでもなく、三太郎の日記は内生の記録であつて哲學の書ではない。若しこの書に幾分の取柄があるとすれば、それは物の感じ方、考へ方、並びにその感じ方と考へ方の發展の經路にあるのであつて、その結論にあるのではない。單に結論のみに就いて云へば、其處には不備や缺陷が多いことは云ふまでもなく、又相互の間に矛盾するところさへ少くないであらう。殊に本書の中にある思想をその儘に、今日の私の意見と解釋されることは私の最も不本意とするところである。私の哲學は今も猶成立の過程の最中にあつて、未だ定まれる形をとるに至らない。この問題に就いては他日又世間の批評を請ふ機會があることを期待する。併しこの三太郎の日記に於いては、特に内生の記録としてのみ評價せられむことを、親切なる讀者に希望して置きたい。

 恐るべき永劫が私の周囲にはある。永劫は恐ろしい。或る時には氷のように冷やかな、凝然としてよどみわたった或るものとして私にせまる。又或る時は眼もくらむばかりかがやかしい、瞬間も動揺流転をやめぬ或るものとして私にせまる。私はそのものの隅か、中央かに落された点に過ぎない。広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。私は永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する如く私もまた永劫の中に存在する。私は点となって生れ出た。そして瞬く中に跡形もなく永劫の中に溶け込んでしまって、私はいなくなるのだ。それも私は知っている。そして私はいなくなるのを恐ろしく思うよりも、点となってここに私が私として生れ出たことを恐ろしく思う。